柳幸典は世界を舞台にユーモアとアイロニーを交えながら現代美術の歴史を刻み続けている。《Wandering Position》シリーズは、柳の名を世界に知らしめた《Ant Farm》シリーズの原点ともなった作品だ。鉄のアングルに囲まれた紙の上に放たれた一匹の蟻。柳は赤いチョークを持って追いかけ、蟻が歩いた跡をなぞってゆく。全体としてフラクタルな軌跡を描くように歩く蟻もアングルにぶつかると鋭い人工的な角度をもって折り返す。また、蟻は追いかけられているにもかかわらず、柳の身体が大き過ぎるため、その存在に気付かない。コンセプチュアルな思考とシンプルな所作によるこの作品の制作風景は、鑑賞者との同化を拒み、あくまでも異化させることで客観的かつ批判的な視点に基づいた思考を促す、ドイツの劇作家のベルトルト・ブレヒトが提唱した叙事的演劇の概念を想起させる。つまり、《Wandering Position》シリーズは美術が可能とした蟻と柳による叙情的演劇の残像でもあり、演劇特有の臨場感をもたらす希有な作品ともいえるのではないか。一見、難解にも思える作品だが、画面を見つめて想像を膨らませることで、柳ならではのユーモアとアイロニーが造形的な美しさとともに伝わってくる。
《Study for American Art-Flowers》シリーズは、アンディー・ウォーホルの個性を喪失し記号化された花が並ぶ《Flowers》が、人間の意思が及ばない蟻によって解体される様を表した作品で、社会における名作の価値を問うている。美術や文学などさまざまな分野で活躍した表現者の作品を引用し、新たな問題を提起する柳らしい作品のひとつだ。
2021年秋と2022年春には、熊本県の津奈木町で大型屋外作品である《入魂の宿》と《石霊の森》が完成し公開が始まった。つなぎ美術館が主催する3年に及ぶ住民参画のプロジェクトにより制作されたこれらの作品には、《Wandering Position》シリーズや《Study for American Art-Flowers》シリーズには見られない地域性が反映されている。柳の多くの作品を見て感じるのは、アーティストとしての立ち位置の揺らぎである。ただ、この立ち位置の揺らぎ、つまり柳自身が「さまよえる位置」とも言い換える「Wandering Position」は、逆説的ではあるが、美術が他者から囚われの身となることを避けるために敢えて選んだアーティストとしての揺るがない姿勢でもある。
柳の作品は批評性をもって深い思索を促す。しかし、本人は作品を通じて自身の主義主張を声高に唱えるつもりはないという。確かに、柳の作品を一方の立場のみで読み解き説明しようとすると相反する新釈の存在に気付かされる。見る人や展示する場所によって、解釈が異なる余白の広さも柳の作品の特徴であり、そこで副次的効果としてもたらされる人と人の対話もまた作品の魅力のひとつなのだ。
つなぎ美術館 主幹・学芸員 楠本智郎